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やれやれ…下らない冗談を燃料にして走る車があれば月まで行けそうだ

勘のいい人はタイトルから察するだろう。
今回、記念すべき第一回目に取り上げるテーマは村上春樹について。
断っておくが、僕は恐らく熱心なハルキストではない。これまで村上春樹の小説で読み返したものはノルウェイの森神の子どもたちはみな踊るくらいだ。
しかし、その代わりと言ってはなんだが、村上春樹の世界のファクター(この横文字はよく出てくるよな笑)とバックグラウンドを追ってみた。


まず、そもそも村上春樹の小説は一体どういった内容なのか?
ネットでよく見かけるテンプレは、
『“人付き合いが苦手。家事全般が何故か得意。シャツにアイロンをかけるほど几帳面。ウイスキーをはじめとする酒類を好む。貞操観念が欠けている。小綺麗で体臭のしない。”ようなどこか浮世離れした主人公が、サンドウィッチやドーナツを食べ、熱いお湯で髭を剃り、屈折した人生をこれまで送りどこか達観したような女性とセックスしているうちに、世界を覆う闇と対峙する』
といったようなものだ。しかしながら、これは平面的かつ表面的なストーリーの流れであって、村上春樹の意図やメタファーは作中であまり多くは語られない。読者が読み解かなければならない部分が本質だろう。村上春樹曰く、『(作中の)超常現象こそがメタファー』だそう。
また、多くの作品の中で、実在しない生き物が数多く出てくるのも特徴の一つ。小人であったり、巨大なかえるであったり、羊男であったり、この世のねじを巻く鳥であったり…。
以上のことを踏まえると、ファンタジー小説や謎を解き明かす推理小説に何の疑いもなくカテゴライズされるのに僕は違和感を感じる。もちろんファクターとして小説内には存在していることはたしかだが、村上春樹自身が掲げる信条や哲学はもっと別の場所にあるのではないか?どちらかというと、ドストエフスキーフランツ・カフカの方が近い存在であると思う。言い換えれば、現代の娯楽小説というより文学に近い。
と同時に、読者がどれだけ村上春樹の作品の本質を読み解いているのか疑問に思う(僕自身は恥ずかしながらネットの検索で引っかかる考察を読んで『なるほどな…』と思うタイプである)。

次に、村上春樹の文体について考察する。
彼の文体は英語の文章を直訳したものに似ている。『日本語の奥ゆかしさが〜』『日本文学が〜』みたいな少し固い頭の読者からすると、恐らく受け入れがたいのだろう。実際のところ、村上春樹自身は一度自分の作品を英語で書き、その後日本語に訳すというプロセスで仕上げているらしい。まるで最初から英訳されるのに備えていて、世界を視野に入れた戦略だと僕は思う。『日本語の奥ゆかしさ』というのは英語にされた時に上手に表現されないのなら、はじめから英語にされた時に活きてくる文章を書く方が合理的だ。『日本語の奥ゆかしさ』を追求することと同じくらい『世界で評価される』作品を作るのも重要である。僕は彼のその点を評価したい。もっと個人的なところまで踏み込むのならば、言葉や文章は時代とともに変化変容するものであり、そもそもその流れを誰も止めることができないのならば、むしろ『日本語的な表現』などと固執するのではなく、ある程度は許容する姿勢であるべきだ。あえて見解を狭める必要はない。
また、村上春樹曰く、『文章は平易で、内容が難解なもの』を追求しているようで、意図して自分の作品に対する敷居を低く設定しているようである。この点も僕は功績として評価したい。

そして、彼が影響を受けた作家について。この項目は一番恐らく僕が力を入れた箇所であるが、恥ずかしながら全てをまだ把握できていないのである。現時点での考察として考えていただければありがたい。
まず、顕著に現れていると感じるのは描写の細かさや丁寧さ。これはドストエフスキーの作品を読んだ時に感じるものと酷似している気がする。ここまで描写が細かいと非常に親切だと感じる。
次に、度々文中に滲み出てくるユーモア。これはトルーマン・カポーティよりも、J・Dサリンジャーの影響だろうか。ナインストーリーズライ麦畑でつかまえてフラニーとゾーイーを一通り読んだが、もっともサリンジャーのユーモアの方が過度で僕には肌に合わなかった(ライ麦畑でつかまえてに関してはそれでも名作だと感じたが…)。
そして、村上作品の中で多くを占めるミステリー要素。これはレイモンド・チャンドラーの影響だろう。しかしながら、チャンドラーとの相違点は謎を解決しきらず、読者の解釈に任せることだろう。
また、作中で度々取り上げられる男女の情事について。これは、スコット・F・フェツジェラルドだろう。村上作品で多くの場合男女の仲が結局のところハッピーエンドで終わることが少ないのは、フェツジェラルドのグレート・ギャッツビーの影響かもしれない。
村上春樹に影響を与えた作家ではなく、事件について取り上げるという意味ではほとんど余談になるが、この話も村上作品を構成する上で重要だと思うので触れておきたい。)このブログを読んでいる方々は、オウム真理教が引き起こした地下鉄サリン事件を覚えているだろうか。この事件が契機で、村上春樹は作品内の中で善悪について取り扱う(少なくとも長編小説では漏れなく)こととなった。冒頭で触れた通り、世界を覆う闇と主人公が対峙しているのは一つのテーマとなっているのかもしれない。恐らくそれだけ衝撃的な事件だったのだろう。

最後に、村上春樹の総評をしたい。
日本では珍しく、世界的な作家の一人ではある。が、そこまで評価されていいのかというのは彼の作品を読み始めた時から疑問に思っている。簡潔に言えば、一般受けするような内容では決してない。僕個人は彼の作品を結構好きだし、『好きな人は好きだよね』程度ならわかる。ハルキストによくある『村上春樹を好きなオレはセンスある』とか『知的な自分を演出』みたいなステータスが行動原理なんじゃないか…。
メタファーをよく作品に用いるのは、音楽で言えばRadioheadだったり、映画で言えばデヴィッド・リンチだったり、アニメで言えば幾原邦彦だったり、非常に芸術性は高いと感じるけど、決して万民受けはしない内容だと思う。そういう中でRadiohead村上春樹は特に知名度は高いのとステータスとして好む人は特に多いような共通性があるんじゃないか。『じゃあ、お前はどうなんだ?』って疑問を当然抱くだろうけど、僕も強くは否定できない笑(最終的に村上春樹の総評というよりファンへの言及になったけど、まあいいや笑)


今回の村上春樹への言及はいかがだっただろうか?もしかしたら、僕の解釈が全て正しいとは思えない人も多くいたのかもしれない。
読者の方々が少しでも村上春樹本人、またはその作品に興味を持ってもらえたら幸いだ。おすすめは海辺のカフカ